【制作日誌】ゲームとスポーツ以外なら何でも! (2018.04.01 革命前夜 – 動画あり♪)

今日から4月ですね! 今朝は草取りだけ行い、畑作業はお休みして、家の片づけをしました。

 

この家は古くて隙間だらけのため、昔ながらのだるまストーブがあります。このストーブは強力ですが、灯油の消費量もすさまじいので、使用は来客時のみに限定し、普段はガスファンヒーターを使っています。

 

まだ朝晩は、やや肌寒い日もあるものの、もう暖房器具は不要なので、片づけることにしました。

 

ハンドポンプを使って、だるまストーブから灯油を取り出し、中をカラにします。この家に住むまで、灯油を買ったことも、給油をしたこともありませんでしたが(^^;)、今では灯油の扱いもだいぶ慣れました。

 

 

6台のだるまストーブから、合計50リットルほどの灯油が回収できました! この家は、給湯が灯油式なので、そちらに灯油を回します。当分、灯油を買いに行かなくて済みそうで、助かりました(^-^)

 

だるまストーブは、拭いて、きれいなごみ袋を被せて、倉庫にしまいました。

 

続いては、ガスファンヒーター。こちらも、この家に住むまで、私はガス栓の開栓の仕方も、ホースの取り付け方も知りませんでしたが、今では出来るようになりました!(自慢にもならないですが…^^;)

 

こちらも、拭いて、ビニールを被せて、収納します。

 

 

これらのことを自分でやるようになって、つくづく、今まで、どれだけのことを「他のだれか」がやってくれていて、自分はそのことを意識さえせずに、まるで「蛇口をひねれば水が出てくる」…ぐらいの感覚で過ごしてきたのか!と思います。

 

というか、「蛇口をひねれば水が出てくる」ということももちろん、それを可能にするための誰かの働きがあるわけですが。

 

旧式の家で暮らすことで、社会常識のない私も日々、生活の基礎を学んでいます(^^;)

 

ところで、社会常識や生活の基礎と言えば、現在、3年前のりべるたんの撮影素材を見返していて、自分の「畑」&「植物」に関する知識のなさに、びっくりする日々です。

 

今でこそ、小規模とはいえ家庭菜園をやり、野菜はほとんど自給できている状態ですが、当時の私は、雑草がどのように生えるのか、花はどういうタイミングで咲くのかも知らず、そもそも関心さえ持っていないということが、映像から伝わってきます。

 

菅谷さんや四元さんたちが、週末ごとに畑作業をする様子を、私は熱心に撮影をしていました。映像には、次はどこを耕すか、今の時期には何を植えられるか、雑草対策として石を置こうか…などなど、今の私からすれば「そうそう!」と大きく頷くような会話が記録されています。

 

でも、それらを撮影する私の「目線」は、農作業の「実務」にはありませんでした。

 

サツマイモの苗を、そおっと丁寧に植える様子や、雑草を刈る手元のしぐさ…

 

それらを形の上では「記録」しているものの、私の注目は、農作業中に交わされる何気ない会話だったり、ふとした表情だったりするのです。

 

作り手によっても違うかもしれませんが、私の場合は、「農作業」に興味があるから、畑作業をしている彼らを撮影する、というのではありません。ぶっちゃけ、取り組んでいる内容が何であれ、「その人たち」を撮りたいから撮影するのだと思います。

 

その作業を撮影することによって(それはつまり長い時間を一緒に過ごすことによって)、その人を理解したいとか、その人らしさが垣間見える瞬間を撮りたいというのが、撮影の一番の動機です。なので、活動なら「なんでも」撮影したいと思うのです。

 

とはいえ、「その人らしさ」というのは、そんな単純なものではありませんし、人はだれしも様々な顔があります。また、相手や状況によっても見せる顔は違うし、時や経験を重ねることによって、変わっていくものでもあります。

 

その前提に立った上で、出来るだけ様々な局面での「顔」や「考え方」、「意見」などに多く触れることで、他人である「私」が、よりその人について理解する確率を高めたいと思うのです(どこまで行っても「他者」を完全に理解することは不可能なので、「確率を高める努力をする」ということです)。

 

その人を少しでも知りたい、そして知らせたい…。その気持ちは、突き詰めれば、ドキュメンタリーを作るもっともシンプルな動機・根幹なのだと思います。

 

なので、「農作業をする」と言えば農作業を撮るし、「ごみ拾いに行く」と言えば同行して撮影します。

 

ただし、「なんでも撮る」とは言っても、「ゲーム」と「スポーツ」は、私はほとんど撮りません。なぜなら、これらは一定の「ルール」に従って行われるものなので、「その人らしさ」(個性)が発揮される機会が少ないと思うからです。

 

「いや、ゲームやスポーツだって、人間性は十分出る!」という意見もあるでしょう。もちろんそうですが、ゲームやスポーツにおける「その人らしさ」というのは、まずそのゲームやスポーツのルールに、作り手(私)と映画を観る観客が精通していないと、「この局面でそのパスを出した」という「その人らしさ」は理解することが出来ません。

 

また、試合を「通し」で見ないと、その行為の意味が伝わりにくいというのも、ゲームやスポーツの難点です。例えば、選手交代のタイミングなど、その試合をずっと見ていないと、そこでその選手が投入されることの意味までは、理解しにくいのです。

 

映像というのは、そのゲームやスポーツがメインテーマの作品は別として、大抵は編集して一部分しか使われないため、そこからにじみ出る人間性を…というのには不向きだなというのが私の考えです。

 

ちょっと話が脱線しましたが、私は「農作業をする彼ら」を撮りたいがためにカメラを回し、「農作業そのもの」にはほとんど関心を払っていなかったので、カメラワークにもそれは反映されていました。

 

植物を撮った映像も、個々の「野菜」(個体)として注目するというよりは(例えば「ラズベリーの葉はこういう形」とか)、庭全体の色の配置やコントラストといった、「絵的な美しさ」を表現したいとカメラを回しているというのが、映像から伝わってきます。

 

そもそも「農作業をする彼ら」を撮るために撮影していたのですが、やがて、畑を撮る私の関心は、「なぜこの土地が畑なのか」、「近隣住民との関係」、「再開発」といったテーマにも広がっていきました。

 

あの畑は、奇跡的に都会の真ん中に存在する、オアシスのような場所です。ここが歴史的にどのように使われてきたのか、近所のお年寄りの方々にも話を聞かせてもらいました。

 

『さようならUR』取材時もそうでしたが、「住まい」について聞くということは、その人の「人生」についてお話を聞くことでもあります。このときも、思いがけず、その方の戦争体験について聞かせてもらったり、この地域が現在抱える、高齢者の一人暮らしの問題についても教えてもらったりしました。

 

このオアシスのような畑も、「再開発」と無関係ではいられません。実際、のどかな畑の様子を撮影しながら、私の耳は、そう遠くない場所で行われている工事の音に注目していました。美しい花々とは対照的な金属音を、意識しながら撮影・集音していました。

 

また、りべるたんから近い場所に建設中だった高層マンションも、定点観測的に、完成までの様子を撮影し続けていました。畑から、カメラを少し上に向けると、完成間近の上層階に、クレーンがある様子が映っています。

 

畑に関しては、主に以上のような興味と視点で撮影していたので、目の前で行われていた畑仕事そのものには、まるで関心を払ってなく、もともと知識もなく、さらには覚えようともせず、とんちんかんなコメントを言いながら撮影していました。それらの映像を今、日々見返さないといけないのは、本当に赤面ものです(^^;)

 

そんな、当時の撮影の様子が分かる映像を少し紹介します。

 

 

以上、本日の制作日誌でした♪