【制作日誌】全裸の価値(2018.02.20 革命前夜)

信じられないことに、ずいぶん前に「選挙運動の最終日まで書き起こしを終えた!」と宣言しておきながら、私はその後ずっと、そして今日もなお、投開票日のたった一日について、書き起こしを続けています(> <)!

 

まるで、1日のうち、24時間ずっと撮影していたのではないか?と疑ってしまうほどです(> <)

 

ブルーレイのディスク自体は、投開票日については3枚ほどなので、書き起こしに要する時間の見当もついていました。しかし、投開票日だけカメラの撮影画質設定を変更していたということを、すっかり忘れていたのです!

 

(今日は撮影が長くなるぞ)とか、(現場が緊迫しているので、SDカードを買いに離れることもできないぞ)とあらかじめ予測した場合に、カメラの撮影画質設定を若干下げ、1枚のカードに長時間の記録ができるように変更することが、ごくまれにあります。

 

菅谷さんの選挙の投開票日、国会前ハンスト、りべるたんのガサ入れについては、そういえばその時だけ撮影設定を変更していたなぁということを、思い出したのでした…!

 

カメラのメーカーや機種にもよりますが、同じ「フル・ハイビジョン」でも、いくつもの設定が用意されています。

 

私のビデオカメラの設定画面

 

 

例えば、設定を「プログレッシブ」から「インターレース」に変更するだけでも、撮影可能時間は5倍くらい増えたりします。データサイズが小さくなるということは、その分画質も下がるということですが、でも全て「フル・ハイビジョン」ではあるため、その差・違いというのは、よほどの大画面でもない限り分かりません。

 

そんなわけで、普段はこのカメラの最高画質で撮影し、撮影が集中する期間中のみ、若干画質を下げていたのでした。よって、ブルーレイディスクの枚数は3枚で大したことがなさそうでも、実際には通常の5倍以上の長時間動画が収録されているのです(> <)

 

まだ、終わりの見えない投開票日の「宴」ですが、書き起こしをしていて面白いと思った場面がありましたので、ご紹介します。

 

ドキュメンタリーの撮影というのは、「はい、今から撮影します!」と言って撮るものばかりではありません。そんな風に撮るのは、インタビューや集会ぐらいです。その他の大部分は、「なんとなく」撮る日常生活や会話です。自然に流れているそれらの時間を、「撮りますよ」とか「撮っても良いですか?」といって介入したりせきとめるのは嫌なので、大抵、私はおもむろにカメラを取り出し、回し始めます。

 

もちろん、その大前提として、私が(どんな作品になるかは分からないものの)「このテーマでドキュメンタリーを作りたいと思っている、だから撮影に来ている」ということは、その場にいる人たちがすでに知っている、ということが必要です。でも、そのことを知ってもらっているならば、あとは私は自分が撮りたいタイミングで、撮りたいように撮る、周りは私のことを構わないで放っておく…これが理想的な取材形態だと思っています。

 

とはいえ、ず~~~っとカメラを回していると、撮られている方も、撮られていることを知っているとはいえ、カメラのことを一瞬忘れてついつい、撮られたらまずいと思うようなことも話してしまったりします。

 

投開票の日、菅谷さんと森さんが床に寝転んで話している様子を撮影していたら、菅谷さんが「今のピロートーク、撮られてるよ!」と言いました。

 

菅谷さんは、その映像をNGにするには、性器を出せばよいと森さんにアドバイスをしていました…(^^;)!

 

なるほど、性器が映っていたらその映像は使えない…と考えるのか。

 

私は、これまでに性器とか全裸を撮影したことが、そういえばありません。でも、撮ったことはないけれども、私にとっては「性器の露出」、または「全裸」というのは、映像素材の取捨選択において特に影響は及ぼさないだろうなぁ…と思うのです。

 

性器が映っているから使えない、もしくは、映っているから使いたい…そんな風には考えません。そのシーンが映画にとって必要か、流れの中で重要な意味を持つか、ポイントはそれだけです。

 

なので、私にとっては着衣だろうと全裸だろうとなんら違いはないのですが、でも、全裸は気にしない私でも、忌避するものがあります。

 

それは、「涙」。

 

誰かが泣いていると、私はそのシーンを使うのをやめようと考える性質です。

 

インタビューをしている最中に、感極まって泣いたり、涙を浮かべる…ということが、たまに起こります。「泣く」のはもちろん自然な感情・行為ですし、泣いている最中もカメラは回しています。撮りながらもらい泣きをすることもあります。

 

でも、編集の段階で、泣いている部分については大抵カットします。

 

なぜか?

 

それは「泣く」とか「涙」というものが、見る者に圧倒的・一方的な力を持って訴えかけてくるからです。泣いていたら、それは見る側にも悲しさを強要する。泣いている人の方が正論を言っているように見せてしまう。泣いている人に同情せよ…と、一方的な見方を強要するように感じてしまうのです。

 

兄弟もしくは恋人同士がケンカをして、どちらかが泣いたら、そもそものケンカの原因はもはや関係なく、泣かせた方が謝らなきゃいけない…みたいな。

 

そういう、「泣いたもの勝ち」的な立場の提示になってしまう気がして、圧倒的な威力を持つ涙の力は「封印」したいと思うのです。

 

でも、テレビでもドキュメンタリーでも、主人公や被写体が泣き始めると、カメラがズームして、涙を浮かべた目元をアップするようなカメラワークは多々ありますよね。

 

こういうのを見ると、作り手側の「ここで感動しろ! お前も泣け!」という思惑が透けて見えるようで、私は気持ち悪さを感じてしまうのです(^^;)

 

ずっと昔に見たドキュメンタリーで、この「涙」に関して、素晴らしいカメラワークに遭遇したことがありました。それは、原発の作業員として働いて、のちにガンとなり、労災を申請したが全く相手にされない…という日本の労働者たちを追った、イギリスのドキュメンタリーでした。

 

インタビューで、無念の思いを口にするその男性は、感極まって男泣きを始めます。すると、それまで男性にフォーカスしていたカメラのピントが外れ、隣でじっとうつむいて男性の話を聞く、妻の表情にピントが切り替わりました。

 

当事者である男性が無念なのはもちろんのこと、その男性を支え、長年連れ添ってきた妻の、涙を見せずにじっとうつむくその表情は、男性の頬を伝う涙以上に、言葉にならない多くの苦悩を伝えている…と感じました。男性の無念さが、妻の表情にフォーカスすることで、より倍増するかのようでした。

 

それはBBC制作のドキュメンタリーで、クレジットを見るとカメラマンは外国人の名前でしたが、言葉が分からない現場でカメラを回し、その表情を見ながらあのタイミングでピントを切り替えたそのカメラマンはすごい!と感動したのを覚えています。

 

泣き顔の大写しだけが、悲しみを伝えるのではない。

 

その時に、そう思いました。

 

話がそれましたが、性器露出で映像はNGになるのか…についての議論について、動画をご紹介します。「性器を出せばNGになる」と考える菅谷さん、「アート系の映画ではモザイクなしのものもある」と主張する私、「撮るという行為は、シャッターを開いて入って来るものを受け止めることに過ぎない」と、作り手の視点も持ち合わせる森さんの、三者三様の語りが入っています(^^)

 

 

あ、ちなみに、森さんのピロートークの内容はヒミツです(^^)/ 本編にも入りません(^^)

 

以上、本日の制作日誌でした♪