「成田光房」を主宰する成田秀彦さんと初めて会ったのは、2014年だったと思う。当時、私は池袋にあったシェアハウス「りべるたん」で撮影をしていた。そのころ、りべるたんに居住していた森さんが、成田さんのもとで写真の修業をしていたので、湯島の成田光房を訪ねたのだった。
光房では、成田さんやほかの参加者の方々のお話を聞き、過去に撮影した写真のアーカイブを見せてもらった。その後は、年に一度あるかないかぐらいのペースで、土曜日の交流サロンを訪ねたり、展示を見に伺ったりした。そのかんに、光房は湯島から三鷹へ移転した。
今年6月、三鷹の光房が終わってしまうらしいと聞き、りべるたんつながりの数人で光房を訪ねた。聞くと、成田さんの意思・都合で光房を閉じるのではなく、大家さんに理不尽な移転を迫られたことで不信感が募り、ここを出ていくことに決めた、しかし次の移転先がなかなか見つからない…ということだった。
成田さんによれば、次の場所も三鷹で探していて、いいと思う物件もいくつもあったのだが、すべて年齢を理由に断られているそうだ。三鷹に特にこだわりがないのなら、さらに中央線を下れば、いくらでも選択肢は広がりそうだ。しかし、小学生時代を三鷹で過ごした成田さんは、このエリアに愛着を持っている。
湯島から三鷹に移転した6年前、光房の場所探しをしていた時は、年齢を理由に断られることは、まずなかったという。年齢が本当の理由か、それとも体よく断るための表向きの理由なのかはわからない。しかし、6月末の移転期限が迫る中、今回、ことごとく年齢を理由に断られている状況に、成田さんは困り果てていた。
成田さんの光房をみれば、引っ越しと家探しは大変だろうなと想像できる。単に「住む」だけの住居なら良いが、成田さんの場合は、高校卒業後写真の専門学校に入ったときからの、文字通り「すべての」写真と作業資料などが保存されているからだ。
この「すべての」には、成田さん自身の製作物だけでなく、成田さんが美学校で教えて来た生徒たちが練習で撮影したもの、作品として完成させたもの、成田さんの先輩たちが作ったもの、「成田光房」の生徒や弟子たちが撮影したもの…など、半世紀以上にわたる膨大なコレクションがすべて含まれている。
これらのコレクション(成田さんはそれらを自虐的に「残骸」と呼ぶ)は、三鷹だけでは到底保管しきれず、土浦と川越の倉庫でも保管している。成田さんとしては、土浦や川越の倉庫は、単に保管するためだけの場所になってしまっているので、できれば1箇所で、作業室、暗室、アーカイブ展示室、保管室、交流サロンを兼ね備えた場所が欲しいと思っている。
なんとか、移転期限までに成田さんの希望に見合う物件が決まれば…と願いつつ、もし見つからなかったらどうなってしまうのだろう、と私は心配した。
移転期限の6月末が過ぎてしばらくしたころ、1枚のはがきが成田さんから届いた。宛名以外に書かれた文字はなく、ただ、成田さんの住所と名前が複数のハンコで押されたものだった。ハンコの住所が武蔵野市になっていたので、(あぁ、成田さんは新しい場所が見つかったんだ!)と安堵した。
早速、引っ越し祝いを兼ねて光房を訪ねてみようと、ハンコにあった住所をGoogleで調べた。「〇〇荘」と書いてあったので、集合住宅なのかな?と思い、Googleマップで現地写真を見てみると…
今にも壊れそうなボロボロのアパートに、「〇〇荘」と手書きの錆びた看板が写っていた…
住所、番地には間違いがない。成田さんのハンコにも「〇〇荘」とある。廃屋のように見えるそのアパートに、本当に成田さんは引っ越したのだろうか??? にわかには信じられなくて、私ははがきにあった電話番号へかけてみた。
…そうしたら、成田さんが電話に出たのだった!!
Googleマップで写真を見て、信じられなくて電話をした…と私が言うと、成田さんは「そうなんだよ!」と。
聞けば、結局、6月末の移転期限までに次の場所が見つからず、「どこも見つからなかったらここへ」と言われていたこの場所へ引っ越してきたのだという。この物件の大家さんとは知り合いで、元の居住者が家賃を何年も不払いのまま姿を消し、置いていった家財一式を勝手に撤去することはできないので、さらに何年も放置していたという、いわくつきの物件だ。
外見同様、室内もボロボロで、エアコンは壊れ、雨戸・網戸は破れ、トイレは真っ黒、風呂は無し…
まるで、昭和の時代に「成功を夢見て上京した10代の青年」が下積み時代を過ごしたようなボロアパートで、ここを新たな「光房」とし、はがきを送ってこられた成田さんに、わたしはがぜん興味を持った。
なかなか、写真の大家・細江英公のもとで修業を積み、唐十郎や土方巽といった一流の芸術家と交わり、あの森山大道とも仕事をした…という経歴を持つ人が、再び戻る・戻ろうとする場所ではない。成田さんには失礼かもしれないが、電話口で私は思わず「面白い!」と言ってしまった。
成田さんに電話をした数日後、今度は珍しく成田さんのほうから電話があった。
電話の用件は「この場所を記録しておいて」だった。
私は、成田さんが私に記録を…と言ってきた意味を考えた。記録なら、それこそ成田さんの周りには、これまでの生徒・弟子を含め、技術的に可能な人はたくさんいるだろう。でも、成田さんの移転先探し⇒ボロボロのアパートからの再出発を、(不謹慎にも)面白がって話を聞きたがるのは、わたしぐらいだったのかもしれない。
私は二つ返事でOKし、カメラを持って武蔵野の「成田光房」へ向かった。
(つづく)