写真家を志す人にとって、細江英公さんのもとで修業ができるというのは、あこがれの環境と思われるかもしれない。
だが、実際の修業生活はあらゆる面で過酷だった。時代的な背景もあるかもしれないが、記憶する限り無休・無給で、住まいの援助もなかった。朝8時半に細江さんの自宅兼事務所へ行き、帰りは夜12時すぎ。アルバイトをする暇もない。
…これでどうやって生活しろと…?
成田さんとほぼ同時期に入った「先輩」弟子は、実家暮らしで、細江さんの事務所へ実家から通っていた。それならまだ(良いとは言えないが)生活はできそうだ。
一方、成田さんは住まいを自分で確保しなければならなかった。
修業を始めて間もないころは、同級生のアパートに居候をさせてもらった。ただ、そう長く居続けることは難しい。成田さんは、実家から仕送りをしてもらい、細江さんの事務所近くにアパートを借りた。
そのアパートは、自室は四畳半と小さな台所のみ。トイレは共同で、風呂は無し。家賃は当時のお金で数千円。当然、生活に余裕はないので、自炊する習慣が身についた。まずご飯を炊く。それを納豆で食べる。卵があればなお良い、と。そのスタイルは今も変わらない。
金銭面では過酷な修業生活だが、肝心の写真修業はどうだったのか?
細江さんの事務所は、前述したように自宅も兼ねていた。成田さんが朝8時半に自宅兼事務所へ行くと、細江さんの妻は「待ってました!」とばかりに、自宅の掃除、洗濯、買い物などの家事を頼んでくる。送迎の運転手や靴磨きもやった。
これじゃあまるで無給のお手伝いさんだが、成田さんは文句ひとつ言わず、笑顔でこなした。なぜなら、修業生活というものは、そう長く続けるものではないし、いずれここを出ていくのだから…そう割り切って、成田さんは家事全般をやり続けた。
…とは言うものの、先輩弟子がなかなか外に出ていく気配がない。わずかな差で弟子入りしたとはいえ、”先輩”を差し置いて成田さんが先に卒業することはできない。
どうしたものかなぁ…と悩んでいたころ、その先輩弟子が細江さんにお休みを願い出た。「1週間韓国に行きたい」と。
盆と正月の休みさえもえらえない修業生活で、1週間の夏休みなんて認められるわけがないと成田さんは思っていたが、細江さんは意外にもあっさり、「いいよ」と認めたのだった!
そこで成田さんは、外国に行くと言えばお休みがもらえると期待して、先輩弟子がお休みを願い出た数日後に、「僕もお休みを頂けますか?」と細江さんに申し出た。全くお金はなかったが、「アメリカに行きたいです」と!
そうしたら、成田さんにもお休みが認められたのだった!!
時は1972年。1ドル360円、大卒の初任給が1万円という時代。細江さんが手配してくれた、アメリカ行きの40日間オープンの航空券は、20~30万円もした。成田さんは実家の母親に電話し、チケット代の半分を工面してもらった。
英語はしゃべれなかったが、日本からサンフランシスコへ飛び、グレイハウンド(長距離バス)に乗り、3日間かけてニューヨークへ。サンフランシスコから終点のニューヨークまで乗ったのは、成田さん一人だった。道中、アメリカ人からからかわれもした。
絶頂期のアンディー・ウォーホルらが活躍するニューヨークで、成田さんは大きな刺激とカルチャー・ショックを受けた。アメリカ滞在中、毎日がお稽古と考え、写真を撮りまくった。ニューヨークからハワイへ飛び、40日間の旅を終えた。
帰国してすぐ、成田さんはアメリカで撮った写真をキャビネサイズでプリントし、細江さんに成果として見てもらおうとした。写真は100枚以上あったのに、細江さんはパッと3~4枚だけ見て、「なんだ、記念写真か」とつぶやいて、それ以上見てくれなかった。
それでも成田さんは、アメリカで撮ったそれらの写真を、ニコンサロンに応募したいと考えた。冗談半分で応募してみたところ、なんとニコンサロンで展覧会を開けることになった!!
先輩弟子はまだ卒業していなかったが、成田さんはニコンサロンの展示の前日までで弟子をやめさせてほしいと細江さんに申し出た。写真だけでなく家事一切もやる便利なお手伝いがいなくなるからか、細江さんはにらむような表情で言った、「いいよ」と。
こうして、成田さんは5年に及ぶ修業生活を終えた。成田さんが独立後、どのような道を歩んだのかは、次回述べる。
(つづく)