沖縄の怒りと共に 79号(2012年1月発行) 『ブライアンと仲間たち』、その後

映画『ブライアンと仲間たち』後、ブライアン、彼の仲間たち、そしてパーラメント・スクエアをめぐる状況はどのように変わったのか。映画の完成後、断続的にブログなどで状況をお伝えしてきましたが、2012年1月に、改めてこれまでの流れをまとめた原稿を書き、「沖縄の怒りと共に」(79号)に掲載していただきました。その全文を紹介します。

ブライアンと仲間たち パーラメント・スクエアSW1

Brian Haw, パーラメント・スクエア

記事本文 イギリスの平和活動家、ブライアン・ホウさん亡くなる

国会前での10年間の抗議活動とその後

2011年6月18日、イギリスの国会議事堂前で約10年間、英米政府のテロ撲滅戦争に対し抗議を続けた平和活動家、ブライアン・ホウ(Brian Haw)が亡くなられた。死因は肺ガンで、62歳という若さだった。

私は、ブライアンと彼のサポーターたちを追ったドキュメンタリー、「ブライアンと仲間たち パーラメント・スクエアSW1」という映画を2009年に制作した。ジャーナリズムを学ぶため2007年に渡英して、偶然ブライアンたちの抗議テントを見かけ、好奇心からカメラを回し始めたのがきっかけだった。その時点で抗議活動は6年目を向かえるところだった。

国会議事堂前の広場、パーラメント・スクエアで寝泊りし、一度も家に帰ったことがないという。一体どうやって生活をしているのか? 家族は? 日本の国会の前で同様の抗議活動は可能だろうか? 戦争は二度とすべきでないとは思いつつも、具体的に反戦の意思を表示したり、反戦デモ等に参加した経験もなかった私は、ブライアンの抗議活動にとても驚いた。

国会の前での占拠・抗議活動は、国家権力との闘いでもあった。36台の監視カメラで24時間体制で監視され、ブライアンの活動を止めさせるためにわざわざ法律まで制定された。それでもブライアンは裁判に訴え、世論に支持され、長期間の抗議活動を続けてきた。「いつまで抗議活動を続けるのか?」--これは通りすがりの観光客が一番よくする質問で、同時にブライアンを最も不快にさせる質問でもあったのだが--そう聞かれるとブライアンは、「あいつら(政府)に聞いてくれ」と、目の前の国会議事堂を指差していたのを覚えている。

英米政府が"テロと闘う"という名目で海外に派兵することに反対し、世界中の戦争が終わることを望んで、体を張った抗議活動を続けたブライアン。私が彼に密着したのは、彼の長い闘いの中のたった1年半という短い期間ではあったが、(この人の最期はどうなるのだろう?)というのは常に頭にあった。ブライアンが生きているうちに、彼の望む世界がやってくるのかどうかは疑わしい。となると、パーラメント・スクエアで果ててしまうのか? それとも家に帰れるのだろうか? 想像がつかなかった。

2009年2月に映画は完成し、イギリス滞在のビザも切れたので、私は帰国した。帰国直前にブライアンと彼のサポーターたちを招待して、ロンドンの小さな映画館で完成披露上映会を開いた。有名なブライアンの活動だが、意外にも長期の密着取材でブライアンを主人公とする長編映画を作ったのは、彼らの知る限りは世界中で私だけだったそうだ。ブライアンたちは映画を気に入り、その後映画が日本で受け入れられ、各地で上映されていることを伝えると、とても喜んでくれた。

年中無休の抗議活動を続けるブライアンと、彼を支えるサポーターたち。しかし実際は、映画を撮り終わる頃には、深刻な内部分裂が始まっていた。「戦争を止めさせる」という最終目標は同じでも、そのアプローチは人により様々である。あくまでも平和的に穏健に活動をしたいと思う人、権力に対し一切の妥協や歩み寄りを許さない人・・・。様々な思想や背景を持つ人が集まるほうが、より多様で魅力的な活動になると思うのだが、現実にはそうは行かないようで、いつしかブライアンを始めとする数人の中心的な人々によって、活動から排除される人々が出てくるようになった。

2010年には、ブライアンの抗議活動を初期から支えてきた、中心的なサポーターであるマリアも排除され(ブライアンたちからスパイ疑惑をかけられて!)、パーラメント・スクエアを訪れるサポーターの数は一気に減少した。それによりブライアンの活動はますます孤立していくことになった。(ちなみに、マリアはブライアンたちの活動から排除されたが、パーラメント・スクエアに留まり、彼女独自の平和活動を始め、現在も継続中である)。

2010年9月、ブライアンは肺に腫瘍が見つかり、ロンドンの病院に緊急入院した。しばらくその病院で治療を続けていたが、イギリスでカルト的な人気を持つ思想家、デイビッド・アイク(David Icke)は、「ブライアンが西欧の現代医療によって殺される」として、オルタナティブな医療を提供するオランダの病院に移すべきだと主張。そのための寄付金を集めるキャンペーンをネット上で展開した。現代医療には様々な問題が指摘されていることは事実だが、デイビッド・アイクがブライアンを送ろうとしたオランダの病院は、無免許の医師が逮捕されたり、ガン患者に重曹を注射して患者を死なせる等の問題が指摘される病院でもあった。

イギリスの活動家向けウェブサイト「インディーメディアUK(Indymedia UK)」では、デイビッド・アイクのキャンペーンをめぐり、賛否両論の多数の意見がやりとりされたが、結局は寄付金が集まり、ブライアンはドイツの代替医療を提供する病院へ送られることになった。(ブライアン自身はデイビッド・アイクを信頼し、同意の上でドイツの病院へ入院した)。

ブライアンは結局、約半年間ドイツの病院に入院し治療を受け、最後はそこで息を引き取った。ブライアンの家族もドイツの病院を訪れ、再会できたと聞いているが、生前に離婚の申し立てをしていた妻も面会に行ったのかどうかはわからない。2011年6月2日にパーラメント・スクエアでの抗議活動開始10周年目の節目を迎えた直後、6月18日にブライアンは亡くなった。葬儀は家族だけで静かに行われ、サポーターたちによる追悼集会などは未だ開かれていない。悲しいかな、ブライアンが死んでもなお、一部のサポーター間の争いが続いているのである。

ブライアンの死後、最も早く動いたのは政府と警察だった。警察はブライアンのテントや所持品を撤去し、政府はパーラメント・スクエアでの泊りがけの抗議活動を禁止する法律を制定した。この原稿を書いている今も、ブライアンのサポーターたち、そしてマリアによる抗議活動は継続しているが、彼らのテントはいつ撤去されてもおかしくない緊迫した状況にある。

「日本では、国会の前で泊りがけの抗議活動なんて無理だろう」。イギリス留学当時、ブライアンの抗議活動を見てそう思った私は、2012年の年明けを経済産業省前の反原発テントで迎えた。東日本大震災、福島第一原子力発電所の大事故を経て、日本でも各地で占拠・泊りがけの抗議活動をせざるを得ない状況となっている。

昨年10月には、ブライアンの追悼上映会を武蔵野市吉祥寺で行った。その際、イギリスのマリアがスカイプで登場し、日本の観客と直接会話をした。平和を願う市民の声に国境はないと改めて感じさせられる一夜だった。

問題があれば声を上げる、そこへ出かけていく、必要とあらば"占拠"してでも市民の声を届ける。それを実践したブライアン、そしてその仲間たち、さらに日本&世界の仲間たち・・・。2012年こそ、市民が主役の世の中になってほしいと願う。

ブライアンのご冥福を心よりお祈りします。

2012年1月2日
早川由美子